横浜天主堂150周年

横浜天主堂と日本再宣教
中島昭子(捜真女学校中学部教頭)

1  はじめに
─ 横浜天主堂・日本再宣教・パリ外国宣教会 ─
横浜天主堂(註1)( 写真1)すなわち聖心聖堂は1862 年1 月(文久元年12 月)に献堂された、幕末開国後最初のカトリック教会、最初のキリスト教の教会堂である。江戸(東京)に近い横浜の天主堂は日本全体に及ぶカトリック再宣教の拠点となった。
150年前のカトリック横浜天主堂写真1 横浜天主堂1549 年、イエズス会(註2)の聖フランシスコ=ザヴィエルFrancisco Xavier(註3)が鹿児島に上陸してキリスト教が伝来し、信徒は徐々に増えた。しかし1587 年豊臣秀吉の発した伴天連追放令(註4)を契機に迫害が始まり、1597 年長崎でヨーロッパ人宣教師と日本人信徒26 人が殉教(註5)した。鎖国政策をとった江戸幕府も、キリスト教の信仰を厳しく禁じ、1644 年最後の司祭が殉教(註6)すると、司牧者を失った信徒たちは密かに信仰を守るようになる。潜伏時代の始まりである。爾後200 年を超える歳月を経て、1854 年の日米和親条約により開国に踏み切った日本は、1858 年にアメリカ・イギリス・フランスなどと修好通商条約を締結、神奈川・長崎・神戸など5 港を開き、居留地において外国人に信教の自由を認めた。翌1859 年、キリスト教各教派の宣教師が上陸、宣教への道が開かれた。カトリック教会においては、パリ外国宣教会Société des Missions Etrangèresde Paris( 註7)( 以下MEP) のジラール神父Prudence-Séraphin-Barthélémy Girard(註8) (写真2)により横浜天主堂が建設され、再宣教が始まったのである。
MEP は17 世紀にパリで誕生したフランス語を母語とする司祭の会であり、教皇が任命した宣教師を主にアジアに派遣し、19 世紀半ばから20 世紀前半にかけて世界最大の宣教会となった。日本については、江戸時代の鎖国・キリシタン禁令によって途絶えていた宣教再開の準備を、ペリー来航による開国の20 年以上前から始めていた。
150年前のカトリック宣教師写ジラール神父写真2 ジラール神父神奈川が開港するとすぐにジラール神父ら宣教師が陸続と入国し、キリシタン禁令が掲げられていた困難な時代に福音の宣布に着手、1873 年の高札撤去により信仰黙許の時代を迎えるまでの時期、再宣教を独占的に担当した。横浜天主堂はもとより、長崎の大浦天主堂、平戸・外海・五島をはじめとする九州各地、函館・新潟・神戸・東京・京都・大阪など歴史の長い教会の最初の聖堂建設にかかわったのはMEP である。本稿では横浜天主堂と日本再宣教について、MEP の歴史もあわせて紹介する。また、再宣教の背景として、宣教師の祖国フランスで宣教活動を献金と祈りで支えた複数の団体に言及したい。

2 パリ外国宣教会─ 創立とその歩み ─
(1)近代宣教の黎明〜前途多難な17 世紀〜コロンブスやヴァスコ=ダ=ガマが活躍した大航海時代、ポルトガルとスペインは教皇から付与された布教保護権(註9)に基づいて、アジアやアメリカを植民地として支配した。両国はイエズス会やフランシスコ会(註10)などの修道会に植民地の宣教を依頼した。こうして聖フランシスコ=ザヴィエルもポルトガル国王の要請によりアジアに派遣されたのである。
しかし、1622 年、教皇庁は本来教会の業である宣教の主導権を国王から取り戻すべく布教聖省(註11)を設置、近代宣教の幕が開いた。日本ではスピノラ神父Carlo Spinola(註12)らが長崎で殉教した元和8 年のことであった。その頃、日本のみならずアジア各地ではキリスト教に対する弾圧が激しく、ヨーロッパ人宣教師はすぐ捕らえられ、信徒に秘跡を授けられないという問題が生じていた。これに対して、フランス人イエズス会士アレクサンドル=ド=ロード神父Alexandre de Rhodes(註13)は、現地のアジア人信徒の中から司祭を養成するための宣教師と、司祭を叙階できる司教をヨーロッパから派遣する必要があると教皇庁に進言した。そこで教皇庁は、布教保護権と直接関係のないフランス人司祭を宣教師として派遣することにしたのである。1658 年から翌年にかけて、インドシナ半島と中国の3 代牧区にフランソワ=パリュ神父FrançoisPallu(註14)( 写真3)、イグナス=コトレンディ神父Ignace Cotolendi(註15)、ピエール=ランベール=ド=ラ=モット神父Pierre Lambert de la Motte(註16)が司教として叙階された。これがMEP の出発点と考えてよかろう。代牧区は正式な教区が組織される前の名称で、その長である代牧(註17)は名義司教として任命されるのが通例である。
150年前の日本のカトリック宣教したパリュ司教写真3 パリュ司教この派遣の特色は、現地人司祭による教会の自立を目的として、修道会に属さない教区司祭を、教皇が宣教師に任命し、その費用を国家ではなく個人が負担した点にある。これは植民地政策との一体化が指摘されてきた大航海時代の宣教と大きく異なる。
派遣にあたり、布教聖省は1659 年11 月10 日付で活動の原則となる「外国宣教に関する指針」(註18)(写真4)を示した。宣教地の習慣への適応、政治問題への不介入、重要問題の決定は布教聖省にゆだねること、そして司祭を育てるための神学校創設がその主たる内容である。特に、「伝えるべきは信仰で、ヨーロッパの習慣ではない」(註19)という考えによる宣教地への適応については、宣教師がまず派遣された地域の言葉を学んだことに具現化されていると考える。MEP 宣教師が編纂したアジア諸地域の言語に関する辞書・文法書などは60 の言語に及ぶそうだ。MEP パリ総本部(写真5)は、パリ7 区バック通りrue du bac 128 番地に置かれた。かつてバビロン司教の邸宅であった建物と周辺の土地を購入して神学校を開き、1663 年国王ルイ14 世の、翌年教皇アレクサンドル7 世の認可を受けた。オルセー美術館に近い、高級住宅街に今も静かな佇まいを見せている総本部は、入口に近いチャペルから奥へ建物が連なり、出発する宣教師が命をささげる覚悟を決めた「殉教者の間」もこの中にある。
最初にアジアに向かった代牧ら約30 人の宣教師は、タイのアユタヤを拠点に現地人司祭の育成にあたり、あわせて周辺地域における活動の可能性を模索した。しかし、ヨーロッパ勢力の進出を恐れた国王に追放され、神学校もベトナムとインドを転々とし、近代宣教の出発は前途多難であった。

「外国宣教に関する指針の手交」(L. レニ=メル作、1968)MEP 所蔵写真4 「外国宣教に関する指針の手交」 (L. レニ=メル作、1968)MEP 所蔵MEP パリ総本部(1663)写真5-1 MEP パリ総本部(1663)MEP パリ総本部(現在)写真5-2 MEP パリ総本部(現在)

MEP パリ総本部チャペル(現在)写真5-3 MEP パリ総本部チャペル(現在)


(2)宣教の危機〜試練の18 世紀〜
18 世紀にもMEP の試練は続く。アジアでは現地政権による迫害、イエズス会やプロテスタントとの対立、フランスではMEP 神学校の管轄をめぐるパリ大司教と布教聖省の見解の相違、アジアに派遣された宣教師とパリ総本部との意思疎通の不徹底などによるものである。中でも宣教師の減少は深刻で、1722 年には4 教区に司教4 人と司祭11 人、合計15 人(註20)であった。そこにフランス革命が追い討ちをかけた。1789年に始まるフランス革命は、絶対王政の終焉、自由で平等な新しい社会の構築を目指したが、キリスト教の影響を排除することも目的の一つであった。このため教会の財産は没収され、MEP は神学校の運営などの財源を失った。また、カトリック司祭に国家への忠誠を求める聖職者基本法が制定され、フランスの司祭は国家への宣誓派と教皇庁の指示に従う道を選んだ非宣誓派に分かれた。宣誓しない者は弾圧を受け、宣教師の場合は海外渡航が認められなかった。MEP の司祭たちは宣誓を拒否したため、神学校は閉鎖、建物は兵舎となり、会員はロンドンなどに逃れることを余儀なくされた。
フランスの研究者の言葉を借りると、カトリック宣教は「きわめて悲惨」(註21)、「危機的な状況」(註22)で、「消えようと」(註23)していた。


(3)「宣教の春」〜復活の19 世紀〜
19 世紀、フランスでは国家と教皇庁との関係が修復され、信仰復興の運動が活発化し、海外宣教に対する使命感の覚醒が見られた。フランス=ロマン主義の先駆者フランソワ=ルネ=シャトーブリアンFrançois-René Chateaubriand(註24)が1802 年に発表した『キリスト教精髄』(註25)の次の一節が、宣教熱高揚の端緒といわれている。「海も、嵐も、極地の氷塊も、熱帯地方の炎暑も、宣教師を押しとどめるものはない。海牛の革でできた袋でエスキモーとともに暮らす。グリーンランド人とともに鯨油を食す。タタール人やイロクオイ人とともに孤独を駆け抜ける。アラビアのラクダに乗り、カフラーリア人の後を追って焼け付くような砂漠をさまよう。中国人、日本人、インド人が彼らによって改宗したのである。大洋には彼らの情熱を免れる島や岩礁はひとつもない。」(註26)また、イエズス会士の書簡集や日本の殉教記録なども広く読まれ、宣教への関心はさらに高まった。宣教師志願者数は急増、新たに修道女が活動に加わり、多くの宣教支援団体が創設された。こうして19 世紀は「宣教の春」(註27)、「宣教の復活」(註28)の時代とよばれるようになる。全世界のカトリック宣教師は18 世紀末に約300 人であったが、100 年後の19 世紀末には、 司祭12,000 人、修道士5,000 人、そして修道女44,000 人、合計61,000 人(註29)を数えた。「宣教師の3 分の2、修道士と修道女の5 分の4 がフランス人」(註30)だとすると、宣教に従事するフランス人は47,000 人に上った。こうした情勢を背景に、ナポレオンによる第一帝政が崩壊した1815 年、MEP は宣教師の派遣を再開(註31)(写真6)、アジア宣教の先頭に立つ。
「宣教師の出発」(C.ド=クーベルタン作)MEP 所蔵 作者は近代オリンピックの父ピエール=ド=クーベルタン(前列の少年)の父写真6「宣教師の出発」(C.ド=クーベルタン作)MEP 所蔵 作者は近代オリンピックの父ピエール=ド=クーベルタン(前列の少年)の父宣教師数は18 世紀の165 人に対して、19 世紀には2,211 人(註32)である。1906 年の1,420 人の派遣が史上最多、殉教者も170 人(註33)を越える。日本には20 世紀初頭までに200 人が入った。MEP が運営する神学校もマレー半島のペナン(註34)をはじめ、インド・インドシナ・中国などで1900 年に41 校(註35)となった。この活動を財政的に支えたのが多くの宣教支援団体で、一般信徒の協力を得て多額の献金を集めた。もっとも大規模な活動を展開したのは信仰弘布会(註36)である。MEP の要請により、リヨン(註37)の女性マリ=ポリーヌ=ジャリコMarie-PaulineJaricot(註38) が週1 スー(註39)の献金を呼びかけ、絹織物工場の労働者らが応じて始まった運動を源流として、1822 年正式に発足した。バゲットが一本2 スー、労働者の時給が4 スーの時代だ。献
金額は「創立年に22,915 フラン15 サンチーム、10 年後に30 万フランを超えた。1840 年には250万フラン、1860 年には450 万フラン、1880 年には600 万フランに達していた。」(註40)20 スーが1フランであるから、まさに水滴が集まって大河になるようだ。

宣教師への援助物資の提供を目的とする布教事業会(註41)、異教徒の子どもたちの教育のための幼きイエズス会(註42)、現地人司祭養成のためには使徒聖ペテロ事業会(註43)など、20 世紀初頭までに50 を超える支援団体がフランスで設立された。現在その多くは福音宣教省に引き継がれている。フランス革命後の各政権は政教分離を指向し、宗教に無関心な人々も増加したが、一般信徒は革命によって失われた信仰心を取り戻し、異教徒への福音宣布をキリスト教世界の義務と考えるようになったのである。不信仰な人が増えていく、そのような時代に、一方で以前より熱心な信仰の表明、宣教への召命と支援者の増加が起こる。これを「奇妙な逆説現象」(註44)と呼ぶことがある。これには地域差があり、パリでは非キリスト教化が進んだのに対し、ブルターニュ・アルザス・フランシュ=コンテ・バスクといった辺境部では逆説現象が起きている(註45)のも興味深い。「宣教の春」は、宗教以外の当時の動向、例えばスエズ運河開通・鉄道や蒸気船による旅の便宜など輸送の進歩、イギリス・フランス・アメリカといった帝国主義列強の勢力拡張政策と無関係ではない。宣教師は活動に有利な条約の締結や外交交渉を自国の政府に求めたし、移動に軍艦を利用することもあった。国家は宣教師を情報提供者としたり、インドシナや中国では宣教師への弾圧を口実に侵略行為に出たりした例もある。しかし、国家は植民地政策に利する範囲でのみ宣教師を保護し、宣教師は教皇庁から派遣されているという強い意識に基づいて活動していた。そして、その費用は一般信徒の献金で支えられるようになった。布教聖省の設置から約200 年、19 世紀半ば、国家から独立した宣教が実現したのである。

3 日本再宣教への道程
(1)フォルカード司教と琉球
日本再宣教は、1831 年、教皇庁が朝鮮に代牧区を設置する際に、日本も視野に入れるようMEP に指示したことから始まる。しかし、当時、日本の鎖国政策は揺るがず、朝鮮半島においてもキリスト教に対する激しい迫害が続いて多くの宣教師が殉教をとげ、日本への道は開かれなかった。アジアのキリスト教禁止政策は、1840 年に勃発したアヘン戦争で中国がイギリスに敗北したのを契機として、変化の兆しが見えるようになる。MEP はマカオ、ついで香港に拠点を置き、改めて日本への渡航を計画した。そのとき彼らの関心を引いたのが、日本と中国を結ぶ航路上にある琉球王国だ。中国と日本の支配下にあった琉球の立場に注目し、日本への入口と考えたのである。最初の宣教師として白羽の矢が立ったのはテオドール=オーギュスタン=フォルカード神父Théodore-Augustin Forcade(註46)( 写真7)
フォルカード大司教写真7フォルカード大司教【コラム1】であった。1844年、フランス海軍の船で、中国人伝道士を伴い、那覇に上陸した。日本開国の10 年前である。2 年間、役人に妨害されながらも日本語を学んだ。長崎出島のオランダ人を除くと、江戸幕府の鎖国政策が及ぶ地にヨーロッパ人が長期滞在した最初の例である。カトリック司祭が鎖国を乗り越えたといえよう。

1846 年、日本代牧区の設置と初代代牧区教区長任命(写真8)の知らせを受けたフォルカード神父は、琉球から中国に向かう途中、船上から長崎を臨んだ。上陸はできなかったが、その日記に「汝の奥深くに今なお残存者[訳者註 キリスト教徒の子孫の意]が隠されていないといえようか」(註47)と綴り、潜伏キリシタンの存在に思いをはせている。フォルカード司教は翌1847 年香港で叙階されたが、日本行きの手段が見つからないまま、健康を害してMEP を退き、フランスに帰った。その後、西インド諸島のフランス領グアドループ司教、フランスのロワール河畔ヌヴェールの司教、南部の大都市エックス=アン=プロヴァンスの大司教を歴任した。ヌヴェール時代には、ルルドの聖ベルナデッタBernadette Soubirous(註48)にヌヴェール愛徳修道会(註49)入会を勧め、誓願式を執り行ったことでも知られている。

また、日本を離れてからも毎月1 日に日本のためにミサをささげ、1862 年にローマで行われた日本26 殉教者列聖式典に参列、1877 年にはパリで日本北緯代牧区教区長ピエール=マリ=オズーフ司教Pierre-Marie Osouf(註50) (写真9)の叙階をつかさどった。

フォルカード司教の日本代牧区教区長任命書 エックス大司教館所蔵写真8 フォルカード司教の日本代牧区教区長任命書 エックス大司教館所蔵オズーフ大司教写真9 オズーフ大司教約束の地に入ることができなかったモーセのように、大司教自身は終生日本入国を果せなかったわけだが、その生涯は日本再宣教に捧げられたものであったと言えるのではなかろうか。琉球はその後も宣教師の日本語研修地となった。横浜天主堂を建てたジラール神父とピエール=ムニクー神父Pierre Mounicou(註51) (写真10)、大浦天主堂を建設したベルナール=タデ=プティジャン神父Bernard-Thadée Petitjean (註52) (写真11)とルイ=テオドール=フューレ神父Louis-Théodore Furet(註53)( 写真12)、日仏修好通商条約締結の際に通訳を務めたユージェーヌ=エマニュエル=メルメ=ド=カション神父Eugène-Emmanuel Mermet de Cachon (註54)らは、開国に備え、琉球で日本語を学んだのである。

ムニクー神父写真10 ムニクー神父プティジャン司教写真11 プティジャン司教フューレ神父写真12 フューレ神父

(2)フランスの祈り
同じころ、フランス東部ジュラ県の小村ディーニャDigna(写真13)では、教区司祭レオン=ロバン神父Léon Robin(註55)が「日本の改宗を祈る会」(註56)(以下「祈る会」)を設立した。
ディーニャ教会写真13-1 ディーニャ教会ディーニャ教会内部写真13-2 ディーニャ教会内部若いころ宣教師を志したロバン神父は、日本の殉教者についての著作(註57)を読んで感動し、着任したディーニャで日本のために祈る会の組織を計画した。このときロバン神父を励ましたのが、一時帰仏していたフォルカード司教の「祈って、祈って、祈る」(註58)よう勧めた書簡であった。1847 年、「祈る会」が誕生したとき、村人550 人のうち450 人が創立会員として登録した。この村
があるサン=クロード教区は、19 世紀に多数の宣教師を輩出(註59)した、信仰復興が盛んな地域であったことにも注目したい。会則はいたってシンプルで、会員は宣教師が日本に入国できるよう、日本人がキリスト教を信仰できる日が来るようにと毎日祈るだけだ。(註60)しかし、会員には信仰弘布会への入会が勧められているので、献金も期待されていたと考えられる。その後、周辺の町や村からも「祈る会」への入会者があり、3 年後の1850 年には1,800 人に達した。1852 年に「ユニオン=フラン=コントワーズ」紙Union Franc-Comtoise(註61)( 写真14)で紹介されると、イタリアやベルギーからも申し込みがあって、会員数は3,000 人を超えたと記録されている。
「ユニオン=フラン=コントワーズ」紙 1852 年3 月20 日付写真14 「ユニオン=フラン=コントワーズ」紙 1852 年3 月20 日付「都の聖母」写真15「都の聖母」この会は小さな宣教支援団体だが、直接日本とかかわる会として興味深い例である。日々の祈りをささげた信徒の中には、日本がアジアのどこにあるのか正確に知らない者も多かったに違いない。遠い国の見ず知らずの隣人のために祈り、生活費の中から献金をしたのであった。福音書にあるレプトン銅貨2 枚を賽銭箱に入れた貧しいやもめの話が想起される。
後日談であるが、横浜天主堂完成の翌1863 年ジラール神父が一人の日本人(註62)を連れてディーニャを訪問し、「祈る会」の会員に宣教状況を報告した。村人たちは15 年間続けた祈りが聞き入れられたことに感謝をささげたという。同年ロバン神父はスピノラらの列福を求める運動にフォルカード司教らとともに取り組み、67 年ローマで行われた日本205 福者列福式に参列している。

また、1864 年、ロバン神父はローマで聖母像を6 体作らせた。聖フランシスコ=ザヴィエルが日本に持ってきたという「幼子イエスをひざの上に抱く聖母」の絵を模したブロンズの聖母像で、「都の聖母」Notre-Dame de Miyako( 写真15)として教皇ピウス9 世によって祝別された。ディーニャ・ヌヴェールなどフランスの教会にあるはずの4 体の行方は不明、( 註63)アルジェリアに送られた1 体については未だ確認できない。日本に送られた1 体は現在京都の河原町教会にあるが、像はローマから横浜のジラール神父宛に届いたので、京都に入る前数年は横浜にあった。


4 横浜開港と宣教師来日
(1)ジラール神父と横浜天主堂
MEP の時間をかけた宣教計画、大勢のフランス人信徒の篤い祈りの実る日がついに来た。1858 年日本は欧米諸国との修好通商条約に調印、居留地における外国人の信教の自由と教会建設を認めた。フランスとの条約(註64)は10 月9 日に結ばれ、その第4 条で「日本に在るフランス人自国の宗旨を勝手に信仰いたし、その居留の場所に宮社を建てるも妨げなし」と謳われた。琉球にいたジラール神父が日本教区長に任命され、フランス総領事ギュスターヴ=デュシェーヌ=ド=ベルクールGustave Duchesne de Bellecourt( 註65)の通訳兼司祭として1859 年9 月江戸に上陸した。ジラール神父は1859 年10 月16 日日曜日に初めて神奈川を訪れた。プロテスタント最初の宣教師ジェームズ=カーティス=ヘボンJames Curtis Hepburn(註66)が翌17 日に着くので、ジラール神父のほうが一日早い。20日付のパリ総本部宛書簡(註67)( 写真16)で神奈川に礼拝堂を建設したいと書き送った。

ジラール神父書簡1859 年10 月20 日付パリ総本部宛(部分)写真16 ジラール神父書簡1859 年10 月20 日付パリ総本部宛(部分)

以来、江戸と神奈川を馬で往復しながら、あるいは神奈川の寺(註68)に逗留して、外国人のためにミサをささげるとともに、宣教の拠点となる天主堂を建てる準備を進めた。当時、東海道の大きな宿場町、神奈川にはプロテスタントの宣教師(註69)も数名滞在していた。しかし、生麦事件など外国人の襲われる事件が頻発していた時代で、危険を伴う活動であった。
ジラール神父に続いて、メルメ=ド=カション神父、ムニクー神父、フュレ神父、少し遅れてプティジャン神父らが来日する。多くの場合、横浜経由で長崎・函館などの任地に向かった。天主堂の建設状況を時系列で振り返ってみよう。(註70)ジラール神父は来日の翌1860 年春までに、神奈川ではなく横浜の居留地80 番(写真17)に約1,000 坪の土地を得て、秋11 月にムニクー神父が到着したとき、すでに6 人は住める司祭館が完成に近づいていたというから、作業は急ピッチで進められていたと推測できる。同年12 月にはすでに天主堂の工事が始まり、約1 年で竣工した。その間、ジラール神父は横浜に住まいを移し、日本に滞在する外国人からも建設資金(註71)を集めた。
横浜天主堂跡碑写真17横浜天主堂跡碑1862 年1 月12 日、外交官や海軍の兵士も参加した荘厳な献堂式が挙行された。その後日本人の見物人が天主堂に押しかけるようになり、ジラール・ムニクー両神父は大胆にも福音を説き始めた。条約上この教会堂は外国人信徒のためであったが、宣教師は異教徒である日本人に福音を伝えるという本来の活動に着手したのだ。ジラール神父の書簡からその様子を引用する。「美しい金色の十字架を掲げ、ヨーロッパのゴシック様式と日本の寺の独創的な様式を合わせたこの小さな教会はすべての人に好まれています。(中略)これが完成してから、日本人の群れがまるで巡礼のように次々と、横浜、神奈川、江戸とその近郊だけでなく、もっと遠いところからも、これをめざして来るのでした。(中略)この訪問によって、多くの人々にイエス=キリストとその神聖なる福音を告げる機会が我々に与えられ、これらの人々は我々が彼らに教える新しいことを極めて大きな関心を持って聴くのでした。(中略)1 か月近く前から教会は朝から晩まで人で一杯です。またこの時から我々は飾ってある絵を用いて、毎日何百という人々に我が聖なる宗教の大網について話しています。」(註72)宣教師はまた潜伏キリシタンを発見したいと考えていた。鎖国が完成する前に改宗したキリスト教徒の子孫がいるのではないかということは、長い間カトリック教会の大いなる関心事であった。ジラール神父が教会の正面に天主堂という文字を掲げたのも、日本人に宣教再開を知らせるためであろう。(註73)潜伏キリシタンの発見、すなわち信徒発見は1865年3 月17 日長崎の大浦天主堂(写真18)において実現した。浦上村のキリシタンが先祖から受け継いだ信仰をプティジャン神父に告白し、マリア像を見て喜びの声をあげたのである。翌18 日、プティジャン神父は、横浜のジラール神父、香港事務所のオズーフ神父、そして上海事務所のピエール=グザヴィエ=カズナーヴ神父Pierre-Xavier Cazenave(註74)宛に書簡を認めて、信徒発見を知らせた。(註75)しかし、前年ジラール神父も潜伏信徒を探しに横浜から浦上へ出かけたこと、大浦天主堂の献堂式を執り行ったことは案外知られていないのではなかろうか。この後、潜伏キリシタンの多くが宣教師の指導のもとカトリック教会に復帰したことは周知の通りである。しかしながら、江戸幕府はこうした動きを容認せず、1862 年2 月、横浜の天主堂を訪れる日本人の商人や農民55 人(註76)を逮捕した。横浜天主堂事件である。ジラール神父らの抗議で3 月上旬釈放されるが、5 年後の1867 年に始まる浦上・五島・今村など長崎地方の大迫害(註77)の前触れともいえる。この間、1863 年には「みこころの鐘」(註78)がフランスから横浜天主堂に贈られ、65 年にはムニクー神父によって『聖教要理問答』(註79)が横浜で出版されたことも記憶にとどめたい。

大浦天主堂写真18-1 大浦天主堂「信徒発見のマリア」写真18-2 「信徒発見のマリア」

(2)キリシタン禁令の撤廃
宣教師の活動と日本人信徒の信仰の妨げとなっていたキリシタン禁令は、横浜天主堂献堂から11 年後の1873 年高札を取り外すという形で撤廃された。高札【コラム2】は、江戸幕府や明治政府の命令を一般の人々に知らせるために立てられた札である。その禁令高札撤去にMEP も大きな役割を果たした。欧米諸国は、日本のキリシタン禁令と信徒弾圧に、信教の自由という観点からこれを非難したが、宣教師の本国フランスの抗議は際立っていた。(註80)1871 年から73 年にかけて岩倉使節団(註81)が不平等条約改正交渉の準備のため、アメリカついでヨーロッパに派遣されると、各国政府は前提条件として禁令の撤廃を要求する。
特に、フランスでは言論界が大キャンペーンをはり、国民議会がこの問題を取り上げた。これを後押ししたのが、横浜に着座していたプティジャン司教らの書いた手紙(註82)、フランスではフォルカード大司教の政府への働きかけであった。信仰弘布会の機関誌「ミッション=カトリック」'Les Missions Catholiques'1872 年9 月27 日号に掲載された宣教師書簡を紹介する。「迫害に関与した高官の中には、フランスに友好を求めに来る使節団の団長その人[訳者註 岩倉具視]がいる。(中略)たとえ彼が迫害を命じたのではないにしろ、その擁護者であった。彼がヨーロッパでその根源を学ぼうとしている文明がキリスト教なくしては不可能なものであったことを理解するよう期待したい。彼がそこで正義と人道への敬意を学ぶとよいのだが。(中略)日本政府はヨーロッパ的な進歩に向かい、文明国の仲間入りをしたいと公言している。このため見かけに惑わされた多くの人々は、無抵抗なキリスト教徒に加えられている野蛮な行為について本当の話を信じようとはしない。この政府の恥ずべき点は、数千名のキリスト教徒が信仰のゆえに苦しみ、迫害の布告が存続し、公の場でわれわれの名誉と宗教的信条を侮辱し続けていることにあるのだ」(註83)この書簡に対するカトリック言論界の反響は大きかった。高名な日本学者レオン=パジェスLéon Pagès(註84)が国民議会に提出した建議書「日本におけるキリスト教徒迫害と日本の遣欧使節団」を一例に挙げよう。パジェスは、フランスの駐日外交官が認めた文書を駆使して、従来の対日キリスト教政策の問題点を指摘し、長崎の信徒迫害を詳細に伝えた上で、次のようにまとめている。「もし日本の皇帝がヨーロッパ諸国との条約を望むなら、その宗教に対して敬意を払い、日本人キリスト教徒に対して宗教の自由な実践を保証しなければならない。(中略)前述の資料により、最近の迫害において岩倉大臣がどのように関与したかがわかる。この人物は条約について話し合う前に、加担した憎むべき行為を直ちに停止させることをはっきりと保証し、確約しなければならない。(中略)日本と唯一可能な条約は、くり返して言うが、神の法に、またキリスト教文明の伝統にかなうものでなければならない。(中略)フランスのなすべきことは何よりもまず、宗教の利益を守り抜き、正義にかなった国以外とは同盟を結んではならないのである。」(註85)1872 年12 月7 日、フランスの国民議会は日本の宗教問題を取り上げ、議員が外務大臣に岩倉使節団への働きかけを要求した。一部を掲載しておく。「日本のキリスト教問題は、アフリカの奴隷売買と並ぶ第一級の人道問題である。(中略)人々の熱狂的な歓呼の中で鉄道が開通したという知らせと、イエス=キリストを信じたという罪で執拗な拷問を受けている話とが同じ郵便で着くなどということは信じられない話だ。(中略)岩倉使節団滞在中に、この重大かつ痛ましい問題についてのフランスの意見を聞かせるべきである。」(註86)1873 年1 月外務大臣は岩倉らとの会談において信教の自由を認めるよう申し入れた。フランスのこうした情勢は速やかに日本に伝えられた。これが1873 年2 月24 日太政官第68 号布告(註87)、すなわち明治政府による高札撤去に一定の影響を与えたことは間違いなかろう。
同布告には「高札面の儀は一般熟知の事に付、取り除き申すべきこと」とあり、これによってキリスト教は黙許されたと考えられている。明治政府は、キリスト教信仰を公けに認めたわけではない、高札という法律を知らせる制度が時代に合わなくなったため、取り除いただけだという主張であったが、翌月流刑地の浦上キリシタンが釈放(註88)されたので、事実上信仰を認めたといえる。公許は1889 年の大日本帝国憲法(註89)による。横浜では、1873 年3 月末、元町の前田橋にあった高札が取り払われたことを確認したのは天主堂主任司祭アルフレッド=ユージェーヌ=マリ=プティエ神父Alfred-Eugène-Marie Pettier(註90)で、当時横浜にいたプティジャン司教やフェリックス=ニコラ=ジョゼフ=ミドン神父Félix-Nicolas-Joseph Midon(註91)、それにフランスから招聘されて前の年に横浜に着いたサン=モール会(註92)のシスターたちに伝えた。浦上から名古屋に移送され、横浜に逃れていた2 人のキリシタン(註93)も聞いたであろう。また、もしマルク=マリ=ド=ロ神父Marc-Marie de Rotz(註94)がまだ横浜にいたなら喜びをともにしたのかもしれない。プティジャン司教は直ちにパリに電報を打つよう、香港事務所の責任者オズーフ神父に依頼した。電報案には「禁令撤廃、囚人釈放、ローマ・信仰弘布会・幼きイエズス会に連絡せよ、宣教師15 名と資金すぐに必要」(註95)とある。この喜ばしい知らせを教皇庁と宣教支援団体に連絡するとともに、宣教師と活動資金を急ぎ送ってほしいという内容である。オズーフ神父は案文通りの電報を香港からパリに送ったが、発信者はオズーフ神父・プティジャン司教の連名になっている。【コラム3】

5 おわりに
高札の撤去後、宣教は飛躍的に進展した。1876年には日本代牧区が南北に分割(註96)、1891 年には司教区制度が導入(註97)されたことからも、教勢の発展がわかる。MEP 創立の目的でもあった現地人司祭の養成も進み、1882 年には最初の日本人司祭が誕生(註98)、1927 年には初の日本人司教として早坂久之助長崎司教(註99)が叙階された。1906 年、横浜の天主堂も山手44 番の現在地に移転し、壮大な大聖堂が完成した。
その中で、特に注目したいのは、社会の暗闇を照らすような宣教師の活動である。具体的な働きとしてジェルマン=レジェ=テストヴィド神父Germain-Léger Testevuide(註100)( 写真19)の例を挙げよう。
テストヴィド神父写真19 テストヴィド神父テストヴィド神父は前述のプティジャン司教の電報に応じて派遣された宣教師の一人である。神父は、横浜から八王子、さらには東海道沿いに小田原・沼津・伊豆・三河・尾張・岐阜まで約100 日をかけて、ほとんど徒歩で、教えを説きながら巡回した。40 キロ歩いた日もあるというハードスケジュールだった。主イエスや使徒たちの巡回宣教を彷彿とさせる精力的な活動だ。その途上ハンセン病で目の不自由な女性と出会ったのをきっかけに、御殿場に神山復生病院(写真20)を設立した。闇に小さな光を点すような大事業である。
神山復生病院写真20 神山復生病院
MEP の宣教師としては長崎外海地方のド=ロ神父、東京のジョゼフ=フロージャック神父JosephFlaujac(註101)、またMEP の招きで来日し、横浜で孤児院を開いたサン=モール会、函館で活動を始めたシャルトルの聖パウロ修道女会(註102)、神戸におけるショファイユの幼きイエズス修道会(註103)などの働きも同様である。
このように宣教事業は日本全国に広がり、各地に拠点となる教会が建設されるのだが、1859 年の横浜開港から1873 年の高札撤去・1876 年の代牧区分割までの時期、すなわち再宣教初期、横浜天主堂は日本全体の宣教の中心であった。宣教師は横浜から任地に向かい、長崎や函館の活動も横浜の教区長が指揮を執り、プティジャン司教やオズーフ司教も横浜に司教座を置いた。「都の聖母」像は横浜に届き、九州の迫害を避けてペナンに渡っていた最初の日本人神学生も密かに帰国して一時期横浜で学んだ。来日修道会の社会事業・教育事業もここから始まった。
こうしてパリ外国宣教会が日本開国前から準備を重ね、横浜の地に始まった再宣教の歩みを振り返ると、宣教師だけでなく、その活動を支えた本国フランスの信徒の篤い信仰と祈りとが一つ一つの業に注ぎ込まれていたことを感じずにはいられない。祈りによって実現したのが日本再宣教であり、祈りの上に立てられたのが横浜天主堂であった。




1. 天主堂は中国や朝鮮におけるカトリック教会堂の呼称である。天主は神の訳語として用いられた。
2. 男子修道会。1534 年8 月15 日、イグナティウス=デ=ロヨラら7 名がパリで清貧・貞潔・巡礼の誓いを立て、40 年教皇の認可を受けた。18 世紀に一時解散、1814 年全面的に復興した。ザヴィエルをはじめ、オルガンティーノ、フロイスら多くの宣教師が日本宣教にあたった。弾圧が激しくなると殉教者が続出、鎖国後も潜入を試みる者があったが、上陸直後に逮捕された。1908 年再来日し、上智大学(東京)、栄光学園(神奈川)などの教育機関を設立した。
3. 1506-1552 イエズス会士。ピレネー山脈バスク地方のナヴァラ王国宰相の子としてザヴィエル城で誕生した。同国がスペイン王国によって滅亡すると、パリで学び、イエズス会創立時の会員となった。41 年リスボンを出発、インドからモルッカ諸島にかけて宣教活動を展開した。47 年マラッカで日本人と出会ったのを契機に日本渡航を計画、49 年8 月15 日鹿児島に上陸した。京都・山口・府内などで精力的に活動した。51 年離日、中国を目指したが病を得て、翌52年上川島(広東付近)で帰天した。1622 年列聖。なお、ザベリヨ、ザベリオ、グザヴィエなどと記されていることもあるが、バスク語ではシャヴィエルと発音する。
4. 天下統一を進める秀吉によるキリスト教宣教師すなわち伴天連の国外退去命令のこと。この時代については海老沢有道・大内三郎『日本キリスト教史』(日本基督教団出版局、1970)、高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』(岩波書店、1977)、清水紘一『キリシタン禁制史』(教育社、1981)、五野井隆史『日本キリスト教史』(吉川弘文館、1990)などの研究がある。
5. 1597 年2 月5 日、長崎の西坂で磔刑に処せられた。フランシスコ会士6 人(スペイン人・メキシコ人・インド人)、日本人20 人( イエズス会士3 人、信徒17 人)。1627 年・1629 年列福。1862 年6 月8 日列聖。
6. イエズス会士小西マンショ神父(1600-1644)と考えられる。有馬セミナリヨで学び、1614 年マカオに追放された後、25年ローマでイエズス会に入会、27 年司祭に叙階された。33年帰国し、大阪で逮捕、殉教したと伝えられている。小西行長との関係は不明。
7. Guennou,J."Missions Etrangères de Paris"(Paris,1986)、MEP"Les Missions Etrangères en Asie et dans l'océanIndien" (Paris,2007)、拙論「パリ外国宣教会の日本再布教計画」(太田淑子編『日本、キリスト教との邂逅』、オリエンス宗教研究所、2004)参照。
8. 1821-1867 MEP 宣教師。シェール県出身。1845 年司祭叙階、48 年MEP 入会。55 年那覇上陸、57 年日本代牧区教区長任命、59 年江戸に上陸。横浜天主堂の建設、長崎・函館などの再宣教初期の活動を指揮した。62 年一時帰仏。横浜で帰天。
9. 宣教師の派遣、司教の任命、司教区の創設など教会の設置と運営に関する権限、ならびに資金提供の義務が含まれていた。
10. 1209 年、アッシジの聖フランチェスコらによって創設された男子修道会。正式名称は「小さな兄弟会」。1593 年日本宣教を開始し、長崎・京都・江戸・仙台などで活動した。1907 年再来日、北海道や奄美大島で活動を始めた。
11. 教皇グレゴリウス15 世が創設した教皇庁の省の一つ。現在の福音宣教省。
12. 1564-1622 イエズス会士。マドリード生まれのジェノヴァ人。1884 年イエズス会入会、94 年司祭叙階。1622 年長崎の西坂で殉教。1867 年、日本205 福者として列福。
13. 1591-1660 イエズス会士。アヴィニョン生まれ。べトナムおよび中国南部で約30 年間宣教に従事。イランのイスファハーンで帰天。
14. 1626-1684 MEP 宣教師・創立者の一人。トゥ-ル(アンドル=エ=ロワール県)に生まれる。1658 年へリオポリス名義司教として叙階、翌年インドシナ半島のトンキン代牧区教区長に任じられた。MEP 創立時の組織整備に貢献、タイ・中国で宣教。中国で帰天。
15. 1630-1662 MEP 宣教師・創立者の一人。ヴァール県に生まれた。1653 年司祭叙階、60 年メテロポリス名義司教、南京代牧区教区長に任じられた。インドで帰天。
16. 1624-1679 MEP 宣教師・創立者の一人。カルヴァドス県出身。1655 年司祭叙階、58 年ベリト名義司教に、翌年ベトナム南部のコーチシナ代牧区教区長に任じられた。タイ・ベトナムで活動。タイで帰天。
17. 現在の使徒座代理区長。
18. Guennou,op.cit.,p.73-76. 出発準備・旅行・宣教の3 部構成。
19. Guennou,op.cit.,p.75.
20. Guennou,op.cit.,p.228-229.
21. Descamps,B."Histoire générale comparée des missions"(Paris,1932)p.511.
22. Delacroix,S."Histoire universelle des missions catholiques"tome 3,( Paris,1957)p.11.
23. Piolet,J.B."Les Missions Catholiques françaises au XIXesiècle"tome 1,( Paris,1900)p.94.
24. 1768-1848 フランスの文学者・政治家。王政復古期に国務大臣・外務大臣を歴任。
25. "Génie du christianisme"(Paris,1802)のこと。田辺貞之助訳『キリスト教精髄』(創元社、1949-1959)がある。
26. Olichon,A."Les missions:histoire de l'expansion ducatholicisme dans le monde"(Paris,1936)p.323 から引用。
27. Delacroix,op.cit.,p.405.
28. Olichon,op.cit.,p.320.
29. Louvet,L.-E."Les Missions Catholiques au XIXe siècle"(Lille,1898)p.412.
30. Ibid.,p.414.
31. ナポレオン1世は宣教地における皇帝の支配を要求したが、MEP はこれを拒否して解散命令を受けた。
32. Olichon,op.cit.,p.330.
33. 1660 年から1986 年までの間にアジアに派遣されたMEP宣教師4,168 人のうち172 人が殉教した。(Guennou,op.cit.,p.244.)
34. 日本開国後、潜伏キリシタンからの最初の召命者も弾圧を逃れてこの神学校で学んだ。
35. Guennou,op.cit.,p.254.
36. Oeuvre de la Propagation de la Foi. 全世界のカトリック宣教を支援する会として設立された。翌年ピウス7 世の認可を受け、1830 年代ヨーロッパ各国に広まった。1922 年本部がローマに移された。
37. 1959 年、横浜の姉妹都市となった。
38. 1799-1862 リヨンで生まれた。17 歳で独身者として生涯を送る誓願を立て、宣教支援や働く女性のための活動を行った。
39. フランスの古い貨幣単位。鹿島茂『19 世紀パリ・イマジネール 馬車が買いたい』(白水社、1990)に詳しい。
40. Olichon,op.cit.,p.334-335.
41. Oeuvre apostolique.1838 年にフランスのヌムール で設立。
42. Oeuvre de la Sainte-Enfance.1843 年パリで設立。
43. Oeuvre de Saint-Pierre apôtre.1889 年パリで設立。
44. B. ド=ソヴィニー他『キリスト教史8 ロマン主義時代のキリスト教』(平凡社、1997)308 頁。
45. Cholvy,G.et Hilaire,Y.-M."Histoire religieuse de la FranceContemporaine"(Paris, 1985)p.278-291.
46. 1816-1885  MEP 宣教師。ヴェルサイユ出身。1839 年司祭叙階、42 年MEP 入会。43 年マカオ、44 年琉球に派遣。47 年サモス名義司教として初代日本代牧区教区長に叙階。51 年病のため帰仏。53 年グアドループ司教、61 年ヌヴェール司教、73 年エックス=アン=プロヴァンス大司教。エックスで帰天。拙論「フォルカード神父とカトリックの日本再布教」(岸野久・村井早苗編『キリシタン史の新発見』、雄山閣、1995)参照。
47. フォルカード(中島昭子・小川早百合訳)『幕末日仏交流記 −フォルカード神父の琉球日記』(中央公論社、1993)201 頁。同書は、Forcade,T.A."Le Premier missionnairecatholique du Japon au XIXe siècle"(Lyon,1885)の翻訳である。
48. 1844-1879 1858 年、ルルドで出現した聖母に出会った。88 年ヌヴェール愛徳修道会(註49)入会。ヌヴェールで帰天。1933 年列聖。
49. Soeurs de la Charité et de l'lnstruction Chrétienne deNevers. 女子修道会。1680 年ヌヴェール近郊でジョン=バティスト=ド=ラヴェーヌ神父によって創設された。1921年来日、神戸・大阪・京都などで活動している。
50. 1829-1906 MEP 宣教師。マンシュ県出身。1852 年司祭叙階、55 年MEP 入会。56 年香港派遣。62 年から香港のMEP事務所所長補佐、66 年同所長。75 年パリ神学校校長、77年アルシノエ名義司教としてパリで叙階、北緯代牧区教区長として横浜に着座、84 年帰国。85 年教皇使節として来日。91 年東京大司教区設置にあたり初代首都大司教。東京で帰天。
51. 1825-1871 MEP 宣教師。オート=ピレネ県出身。1845 年MEP 神学校入学、48 年司祭叙階、香港に派遣。55 年琉球、62 年横浜上陸、ジラール神父とともに横浜天主堂の建設にあたる。65 年『聖教要理問答』(註79)を出版。66 年長崎、68 年函館、その後大阪・兵庫で活動。70 年神戸天主堂建設、同地で帰天。
52. 1829-1884 MEP 宣教師。ソーヌ=エ=ロワール県出身。1853 年司祭叙階、59 年MEP 入会。60 年那覇に上陸、62年横浜に入り、63 年長崎に着任、大浦天主堂の建設にあたる。65 年信徒発見に立会い、66 年日本代牧区教区長に任命、ミリオフィトの名義司教として叙階。71 年横浜に着座。76 年南緯代牧区教区長として大阪に着座。この間、67 年浦上四番崩れの報告のために、69 年には第一ヴァティカン公会議出席のためローマに赴いた。80 年長崎に移り、同地で帰天。
53. 1816-1900 MEP 宣教師。マイエンヌ県出身。1839 年司祭叙階、52 年MEP 入会、香港派遣。55 年ジラール神父とともに那覇上陸。62 年横浜、63 年最初の宣教師として長崎に派遣。64 年一時帰仏、65 年長崎に戻る。67 年横須賀に移り、69 年帰仏。フランスで教区司祭となり、帰天。日本の植物や鳥に関する情報をフランスに伝えたことでも知られる。
54. 1828-1871 MEP 宣教師。ジュラ県出身。1852 年MEP 入会、54 年司祭叙階。55 年那覇上陸、58 年日仏条約調印にあたり通訳を務めた。函館で宣教。64 年MEP 退会。フランス公使館書記、幕府の仏語伝習所教師を務め、徳川昭武の渡仏に同行。ニース(フランス)で帰天。
55. 1802-1882 フランスの教区司祭。フランシュ=コンテ地方サラン出身。1828 年司祭叙階、神学校で哲学を講じるかたわら地域の歴史研究にも携わった。40 年宣教師を志してラザリスト会に入会したが、健康上の理由で断念。44年ディーニャ村に赴任、同地で帰天。
56. Association de prières pour la conversion du Japon. 設立経緯、会員数などについては、拙論「『日本の改宗を祈る会』と19 世紀フランスのカトリック布教支援」(『研究キリシタン学』第3 号、2000)参照。
57. Charlevoix,P.F.-X."Histoire de l'établissement, des progrèset de la décadence du christianisme dans l'Empire duJapon"(Rouen,1715)、"Histoire et description généraledu Japon"(Paris,1736)と考えられる。
58. 1847 年10 月6 日付。(Robin,L."Manuel des associés pourla conversion de l'Empire du Japon",Paris,1864,p.225-226.)
59. 1823 年から50 年の間に30 人以上の宣教師を送り出した。(Rey,M."Histoire des diocèses de France 6,Besançon etSaint Claude",Paris,1977, p.245.)メルメ=ド=カション神父(註54)もこの教区の出身である。
60. 会則第2 条に「本会の目的は、日本に福音を説くために、教皇から派遣される司教および宣教師が入国できるよう祈ることである」、また第6 条には「会員には、日本人の改宗のために、毎日『永遠の御父』あるいは『主祷文』のいずれかと『アヴェマリア』の祈り、および特に『聖フランシスコ=ザヴィエル、私たちのために、そして特に日本のためにお祈りください』の祈りを唱えることを勧める」とある。(Robin,op.cit.,p.253-254.)
61.ブザンソンで発行。
62. Saitou Kenjiroo(Robin,op.cit.,p.218-219)とある。1863 年4 月ローマで教皇ピウス9 世に拝謁、枢機卿から洗礼を受けた人物だが、詳細は不明である。
63. 2012 年8 月、大塚喜直京都司教がディーニャを訪れて、ロバン神父の墓参りをし、教会堂に「都の聖母」像のレプリカを贈られた。(「カトリック新聞」2012 年9 月30 日付)
64. 維新史学会編『幕末維新外交史料集成』第4 巻(1944)467-471 頁。
65. 1817-1881 フランスの外交官。パリに生まれた。オーストリア・デンマーク・ドイツ駐在を経て、1857 年中国の大使館に勤務。59 年初代日本総領事として来日、60 年代理公使、61 年全権公使に昇格した。64 年離日。その後、チュニジア・アルゼンチンなどに赴任。パリで帰天。西堀昭「初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて」(『横浜経営研究』第XIII 巻・第XIV 巻、1993・1994)
66. 1815-1911 長老派のアメリカ人宣教師・医師。ペンシルヴァニア生まれ。1859 年来浜、神奈川宿の成仏寺に住み、一時近くの宗興寺で施療所を開設。63 年居留地39 番に施療所並びに明治学院の基の一つとなるヘボン塾を開いた。67年『和英語林集成』を出版。新旧約聖書の翻訳に従事した。92 年指路教会を建設。アメリカで帰天。高谷道男編訳『ヘボンの手紙』(有隣新書、1976)などに詳しい。
67. MEP 古文書室所蔵Japon568.f.1325-1333.
68. フランス領事館にあてられた慶運寺、あるいは公使館の甚行寺と考えられる。
69. 1859 年、ヘボン(註66)とオランダ改革派のS.R. ブラウン、60 年バプテスト派のゴーブル、61 年オランダ改革派のバラが神奈川に上陸、当初神奈川宿成仏寺で共同生活を営んだ。横浜プロテスタント史研究会編『図説 横浜キリスト教文化史』(有隣堂、1992)参照。
70. 高木一雄『明治カトリック教会史研究 上』(キリシタン文化研究会、1978)、カトリック山手教会編『聖心聖堂百二十年史』(1982)、板垣博三『横浜聖心聖堂創建史』(エンデルレ書店、1987)などに詳しい。
71. ジラール神父の1862 年2 月12 日付パリ神学校宛書簡によれば、「建築費用の総額は3000 ピアストル、3 分の2を寄付で賄った。1 ピアストルは当時5 フラン85 サンチームに相当」とある。(MEP 古文書室所蔵Japon569.f.725-726.)
72. フランシスク=マルナス(久野桂一郎訳)『日本キリスト教復活史』(みすず書房、1985)197 頁。同書はMarnas,F."LaReligion de Jésus ressuscitée au Japon dans la secondemoitié du XIXe siècle"(Paris,1896)の翻訳である。 松村菅和・女子カルメル修道会共訳『パリ外国宣教会年次報告1』(聖母の騎士社、1996)にも関連記事がある。
73. 宣教師の意図を明確に示す史料は確認していない。しかし、前掲マルナスに「この教会[筆者註 横浜天主堂]建立はこれらの人々[潜伏キリシタン]を集めるのに最良の方法だと彼[ジラール神父]には思われた」(185 頁)、また、幕府は日本人への影響を危惧して、漢字で書かれた天主堂の文字の撤去を求めたが、宣教師も横浜駐在フランス領事も応じなかった(202・207 頁)という記述もあり、天主堂の一語に宣教師の福音宣布への強い決意と潜伏キリシタン発見の願いとが込められていたのではないかと推察する。
74. 1834-1912 MEP 宣教師。バス= ピレネ県出身。1855 年MEP 入会、58 年司祭叙階、香港派遣。62 年シンガポール、64 年上海に派遣。66 年プティジャン神父に日本代牧区教区長任命を伝えるために来日。83 年MEP ローマ事務所所長。パリで帰天。
75. 純心女子短期大学長崎地方文化史研究所編『プティジャン司教書簡集』(純心女子短期大学、1986)、拙論「信徒発見を知らせたパリ外国宣教会宣教師書簡」(『キリスト教史学』第66 集、2012)参照。
76. 助野健太郎「山手教会百年史」(カトリック山手教会月報「やまて」第2 号・第3 号、1969)参照。
77. 1867 年に始まる浦上四番崩れ、68 年には五島・今村・伊万里などでキリシタン弾圧事件が続発した。片岡弥吉『浦上四番崩れ』(筑摩書房、1963)、太田淑子編・H. チースリク監修『日本史小百科 キリシタン』(東京堂出版、1999)などに詳しい。
78. 前掲『聖心聖堂百二十年史』3 頁。
79. 中国で出版された要理をもとにした漢文調の文体である。前掲「やまて」第5 号(1969)参照。しかしながら当時長崎にいたプティジャン神父は、カトリック教会に帰正した信徒のためにキリシタン伝統語の使用を主張した。
80. 拙論「明治初年のキリスト教弾圧とフランスの対日外交」(杉山晴康編『裁判と法の歴史的展開』、敬文堂、1992)、「岩倉使節団とフランス」(『キリスト教史学』第48 集、1994)参照。
81. 1871 年から73 年、条約改正の準備交渉と欧米の文物視察のため、岩倉具視を特命全権大使として、大久保利通、伊藤博文ら政府要人が多数派遣された。田中彰校注『米欧回覧実記』全5 巻(岩波文庫、1977-1982)、山崎渾子『岩倉使節団における宗教問題』(思文閣出版、2006)などがある。  
82. 1872 年2 月19 日付、5 月21 日付など、いずれもMEP古文書室所蔵Japon569 所収。'Les Missions Catholiques'(以下MC)同年4 月19 日号、7 月26 日号などに掲載された。
83. 東京神学校校長アルンブリュステ書簡。
84. 1814-1886 フランスの東洋学者。日本キリスト教史研究に力を注ぎ、聖フランシスコ=ザヴィエルの書簡集、日本26 聖人殉教記録などを出版した。
85. MC1873 年1 月31 日号から8 回にわたり連載された。引用は3 月21 日号。
86. MC1872 年12 月20 日号。
87. 内閣官報局編『明治六年法令全書』64 頁。
88. 3 月14 日付で浦上キリシタンの長崎県への帰籍を各県に達示した。(国立公文書館所蔵「太政類典」第二編第二五一巻七)
89.「 第二八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務に背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とある。
90. 1843-1930 MEP 宣教師。1868 年司祭叙階、同年横浜に来日。一時函館で活動したが、72 年から78 年横浜天主堂主任司祭。その後東京・函館で宣教。85 年から1919 年再度横浜天主堂主任司祭を務めた。1900 年山手44 番の土地を入手し、06 年新聖堂を建設。19 年視力をほとんど失い、辞任して帰国。ぺティエと読む場合もある。
91. 1840-1893 MEP 宣教師。ムールト=エ=モーゼル県出身。1864 年司祭叙階、69 年MEP 入会。71 年横浜に派遣、73年長崎に移り、翌年代牧区副教区長として横浜に戻る。75年から横浜天主堂主任司祭を兼務。88 年中緯代牧区設置にあたり代牧区教区長、セザロポリス名義司教に叙階。91年初代大阪司教。翌年病気のため帰国。マルセイユで帰天。
92. Institut des Soeurs de l' Enfant Jésus. 1662 年、ニコラ=バレによってフランスで組織された女子修道会。1872 年、プティジャン司教の招聘に応えて来日、横浜に上陸した。横浜・東京・静岡・鹿児島・福岡・長崎などで活動。来日当時の正式名称は幼きイエスの愛徳教育修道会、現在の幼きイエス会(ニコラ=バレ)。パリのサン=モール通りに本部があることから通称サン=モール会と呼ばれる。マリールイズ= F. ド=ルスタン(島田恒子訳)『ひとつぶの麦のように』(横浜雙葉学園、2000)に詳しい。
93. 1871 年、深堀庄三郎(政吉)と宮崎市郎が横浜に逃れ、教会に匿われた。(カトリック浦上教会『旅の話-浦上四番崩れ』、2005、174-175 頁および三俣俊二『和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン』、聖母の騎士社、2004、228-229 頁)
94. 1840-1914 MEP 宣教師。ノルマンディー地方のカルヴァドス県出身。1862 年MEP 入会、65 年司祭叙階。68 年長崎上陸。一時横浜に異動したが、主に長崎および外海地方で宣教活動、教育事業、社会事業に従事。長崎で帰天。横浜時代(1871-73)には、教理書の印刷、サン=モール会修道院の建設などにあたり、作業着を着て、資材の運搬、大工・左官の仕事も進んで担当した。しかし横浜から長崎に戻った時期は不明であり、高札撤去の際に横浜にいたかどうか分からない。矢野道子『ド=ロ神父黒革の日日録』(長崎文献社、2006)がある。ロッツと読むこともある。
95. MEP 古文書室所蔵Japon570.f.77-81.
96. 北緯代牧区と南緯代牧区が設置され、それぞれオズーフ司教とプティジャン司教が各代牧区の教区長に任じられた。
97. 函館・東京・大阪・長崎の4 司教区が設置された。
98. 深堀達右衛門・高木源太郎・有安秀之進。
99. 1883-1969 仙台出身。1911 年司祭叙階、青森・北海道・宮城・福島をへて、長崎で司教として司牧にあたる。1934年長崎純心聖母会を設立した。仙台で帰天。
100. 1849-1891 MEP 宣教師。オート=マルヌ県出身。72 年MEP 入会、73 年司祭叙階、来日。横須賀・横浜・立川・八王子に、その後神奈川県から岐阜県にかけて巡回宣教。89 年御殿場に神山復生病院を設立。病気療養のため香港に赴き、同地で帰天。
101. 1886-1959 MEP 宣教師。アヴェイロン県出身。1909 年司祭叙階、来日。茨城・東京で司牧、社会事業に力を注ぐ。1937 年ベタニア修道女会を設立。東京で帰天。
102. Congrégation des Soeurs de St.Paul de Chartres.1708年、フランスのシャルトルで誕生した女子修道会。1878 年函館に上陸、東京・盛岡・仙台などで活動。
103. Congrégation des Soeurs de l' Enfant Jésus deChauffailles.1859 年フランスのショファイユで誕生した女子修道会。77 年来日し、神戸で活動を始めた。大阪・京都・岡山・熊本・長崎などで活動。


【筆者プロフィール】
早稲田大学大学院終了後、パリ第二大学において博士号修得。
『幕末日仏交流記─フォルカード神父の琉球日記』の共同訳や「岩倉使節団とフランス─キリシタン禁令をめぐって─」等の近代日本のカトリック歴史研究論文を多数発表。現在、捜真女学校中学部教頭であると共に早稲田大学東アジア法研究所、関東学院大学キリスト教と文化研究所に所属。