祈りをささげる

教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。

秘跡はキリストとの出会い


 今まで「典礼コーナー」において、主日のミサを中心にその理解が深まるように努めてきました。今回からしばらくの間、神のいつくしみを表わす「秘跡」を考えていきたいと思います。
 典礼の核心をなす秘跡によって神はいつくしみに満ちたご自分のふところに人を受け入れるとともに、ご自分の子となった人に、そのいつくしみを人々と分ち合う力をも与えてくださいます。「いつくしみの特別聖年」に、いつくしみの観点から秘跡を考えることは意味のあることと考えます。
 今回は秘跡の共通点を考え、次回から入信(「洗礼」、「堅信」、「聖体」)、いやし(「ゆるし」、「病者の塗油」)の秘跡に順次触れてみたいと思います。

 キリストご自身は御父を表わす「秘跡」で、「原秘跡」と言われます。すべての秘跡はそこから生まれます。教皇フランシスコが特別聖年の大勅書で言っているように「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」です。ことばと行いによって、イエスは御父のいつくしみを見えるようにしてくださいました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ十四:九)。

 秘跡はキリストと信仰者との出会いです。このキリストとの出会いを通して信者は、御父の子としての命をいただきます。出会いには、両者の積極的な行動が求められますが、イニシアティブはもちろんキリストにあります。キリストは弟子たちを呼び、信者は信仰と感謝をもって応え、その恵みを受けます。秘跡によって人はキリストと一致するので、秘跡は御父との出会いにもなります。
 また、聖霊の働きによって教会が行う秘跡は、わたしたちに「今日」与えられるキリストのことばと行いです。秘跡を受ける信者は、日々の生活の中に、十字架の死を通して復活されたキリストを迎え入れています。

 すべての秘跡はみことばによって始まります。また、「わたしはあなたに洗礼を授けます」、「わたしはあなたの罪を赦します」、という秘跡授与のことばは、奉仕者のことばであり、教会のことばでありながら、キリストのことばです。教会はキリストの秘跡(根源秘跡)で、キリストに指示されたように、いつもキリストの名によって秘跡を行います。
 キリストは言われます、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」( マタイ二十八:二十)、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(ヨハネ二十:二十二~二十三)。

 秘跡によってわたしたちが、御父の子、イエスの兄弟、聖霊の神殿になるとは、なんと計り知れない神のいつくしみのおかげであることでしょう。神に感謝!
(教区典礼委員会)