祈りをささげる

教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。

「わたしたち」がささげるミサ




 第二バチカン公会議「典礼憲章」で繰り返し強調されているのは、典礼への信者の意識的、行動的な参加です。公会議の実りである典礼憲章では、「母なる教会は、すべての信者が、典礼の執行への、充実した、意識的な、行動的な参加へ導かれるように切に希望している」(典礼憲章一四)」と述べられています。これはどういう意味なのでしょうか。典礼に奉仕する人たちだけが意識的、行動的参加者なのでしょうか。
 ミサの中で何回も繰り返される「わたしたち」とはだれのことなのか、を考えてみましょう。


 キリストは、神と人類の間に立たれた仲介者(Ⅰテモテ二・五)であり、新約の偉大な唯一の大祭司です(ヘブライ四・一四以下参照)。すべての人の救いのために自らをささげられたのですから、奉献者であると同時に、ご自分をささげものとして提供されて奉献物となられ、これが、神に受け入れられて新約の唯一完全な奉献となったわけです。このキリストの奉献による救いはすべての人に及びますが、なかでも洗礼によって「キリスト者」と呼ばれることになった人々は、聖なる民、新約の神の民となりました。


 この神の民は、主の日に集まり、感謝の祭儀において主の過越を記念し、キリストによってキリストとともに、神である父に賛美と感謝をささげます。ミサは、聖霊によって呼び集められたキリスト者全員によってささげられる聖なる礼拝です。司式司祭、奉仕者がささげるミサに会衆が傍観者として、観客として見ているのではありません。聖変化のあとの、記念唱に続く奉献の祈りの主語「わたしたち」は、第一奉献文に「わたしたち―奉仕者と聖なる民」と言い換えて補足されているように、司式司祭・奉仕者ばかりでなく会衆全体を指しています。ですから、会衆はその祭儀全体に心を合わせ、声を合わせ、動作を合わせて参加することが求められるのは当然と言えます。


 さらに、この「わたしたち」は感謝の祭儀において聖霊を呼び求める祈りであるエピクレーシスによってキリストとひとつにされるのです。「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によってひとつに結ばれますように」とあるとおりです。これによって初めて「わたしたち」はキリストを頭(かしら)と戴くキリストのからだ、ひとつの共同体となり、神に自らを奉献することができるようになります。


 ミサはキリストのからだである「わたしたち」が聖霊の交わりの中で、キリストをとおして行なう、神である父に対する礼拝ですから、「わたしたち」の意識的、行動的参加が求められる一方で、その中心には、復活されたキリストが奉仕者として立っておられます。キリストは、わたしたちを食卓に招き、自らの体であるパンを差し出し、それを分け合って、愛し合い、奉仕し合うひとつの共同体になるように望んでおられます。
 ミサが「わたしたち」によってささげられていること、その大切な意味をもっと意識して、喜びあふれる祭儀にしていきましょう。
(教区典礼委員会)