祈りをささげる

教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。

「ミサの開祭」のこころ




復活された主に出会うために、主に呼び集められて、私たちは主の日毎に集います。この「主日のミサ」に、キリストは三つの形で現存されます。先ず集いの中に、次にみことばの中に、そしてエウカリスティアのうちに。今回は、呼び集められて集い、一つになることの大切さを、「開祭」の中に見たいと思います。


集うことは一つになること


開祭の目的は、主に呼び集められた私たちがキリストのうちに一つになることです。そのためにミサに集まって来た会衆は、お互いに歓迎し合います。係を決めて、案内と歓迎を任せることもできますが、ミサに集うことの意味が、主において一つになることなので、会衆みなが歓迎し合うことが望ましいと思います。一週間、主と共に社会の中で生き抜いてきたお互いが、ご苦労さん、お疲れさん、という気持ちで歓迎し合い、初めて参加する人への心配りも忘れないとき、そこに一つの温かい集いが生まれます。そしてその集いの中に主がおられます。
ところで、ミサの前にも静かに祈りたい方がおられます。教会堂に小聖堂があれば問題はないのですが、ミサを捧げる教会堂に聖櫃がある場合が多く、主日のミサの開祭に当たっては、二つの異なる思いがぶつかってしまいます。前述のように、ミサ前の歓迎はミサに集まって来た人たちの心を温かく結ぶ上で大切なことなので、それぞれの共同体で理解が得られるとすばらしいと思います。
しかし、歓迎の和やかな、にぎやかな雰囲気のままで、ミサを始めるわけにはいかないので、ミサの開祭の時間が近づいたならば、鐘を鳴らすなり、オルガンを弾くなりして、静かな場を作り、会衆の心をミサに向けて静かに整えることが大切です。ミサの始まる時にもう一度ドラなどで合図をすると、会衆の心が引き締まり、一つの心でミサを始めることができるでしょう。こうして始まるミサの「開祭の部」は、「入祭の歌」から「集会祈願」までみな集いを一つの心に結ぶためのものです。
入祭の歌は、その日の主日・祝日のテーマに会衆の心を向けながら、声を合わせて歌うことによって、会衆の心を一つに結びます。
入堂した司祭と奉仕者はまず祭壇の前で深く表敬し、キリストを表す祭壇と一つになって、キリストのしるしとなって会衆と心を一つにしてミサを始めます。
次に、司式司祭は「父と子と聖霊との御名によって・ ・ ・ 」とゆっくり、静かに唱えながら十字架のしるしをし、私たちみなが三位一体の神のいのちに与かっていることを思いおこさせます。会衆は、心を込めて「アーメン」と応え、父と子と聖霊のいのちのうちにいることを再確認して、ミサを始めます。


「その日の主日・祝日のテーマ」に結ばれて


そこで司式司祭は挨拶します。いくつかの式文がありますが、よく使われているのはコリントの信徒への手紙二からの「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」です。会衆は「また、司祭とともに」と応えます。こうして司式司祭と会衆は三位一体の神のうちに一致し、神の愛のうちに生きる者となって、心を一つにして式を進めます。
次に司式者は自分のことばでその日のミサのテーマや意向を会衆に伝え、共に祈る心を揃えます。
その絆は、神だけでなく、兄弟にもゆるしを求めることによって更に強められ、ゆるされた罪びととして、主の慈しみ(キリエ・エレイソン)に感謝しつつ、「栄光の賛歌」を歌います。
続いて唱えられる「集会祈願」によっても、会衆の心は一つに結ばれて神に捧げられます。この祈りも、御父に向けて、聖霊の交わりの中で、キリストを通して捧げられます。感謝の祭儀は、そのどこをとっても、三位の神のいのちの中で心を一つにして捧げられます。
開祭のとき心を整えないと、続く「ことばの典礼」で、みことばに養われることは大変難しくなります。
(教区典礼委員会)