祈りをささげる

教区報に掲載されている典礼コーナーから転載しています。

ミサの中での「平和のあいさつ」



 感謝の典礼で、わたしたち教会共同体は主の過越を思い起こし、主の御父への信仰、愛、従順にあずかります。奉献文においてキリストのうちに一致できるように聖霊の働きを祈り求め、すべての人がキリストの救いにあずかることができるように取り次ぎの祈りを唱えたあと、主の食卓にあずかる「交わりの儀」に入ります。交わりの儀は「主の祈り」に始まり「平和のあいさつ」、「拝領」へと進みます。
 「永遠のいのちの糧」であるキリストのパンをいただくために、わたしたちは心を「平和」に整えます。それは、「主の祈り」の後、繰り返し「平和」が唱えられることからも明らかです。
「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」、「おことばのとおり
教会に平和と一致をお与えください」、「主の平和がいつもみなさんとともに」、「平和のあいさつをかわしましょう」、「我らに平安を与えたまえ」。
「平和」についてパウロは「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、
ご自分の肉において敵という隔ての壁を取り壊し・・・ました。」(エフェソ二:十四)と述べています。十字架上の死を過越して御父の右におられるキリストは、敵という壁を壊し、何も恐れることのない平和を作ってくださいました。
 復活したイエスが、ユダヤ人を恐れ鍵を掛けて家の中に閉じこもっていた弟子たちに現れたとき、「あなた方に平和があるように」と言われました。イエスの受難の時、弟子たちはイエスを裏切りましたが、イエスは弟子たちを一言も責めることなく、「平和があるように」とだけおっしゃったのです。罪の意識にさいなまれていた弟子たちは復活のキリストに出会い、このことばを聴いたとき、キリストのゆるし、弟子たちに対するキリストの極みまでの愛と慈しみを悟り、大きな喜びに満たされました。さらに聖霊の息吹きを受けた彼らは、死をも恐れぬ神の使徒へと変わりました。
 平和のあいさつは、たんなる友だちとしてのあいさつではありません。それは神の平和を与えることを意味します。そのためにお互いが平和のあいさつをする前に先ず神の平和を願い、また司祭はイエスの名によって平和を送ります。平和のあいさつによってわたしたちは互いにゆるし合い、兄弟同士の平和を作ります。「・・・まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰ってきて供え物を献げなさい」(マタイ五:二十三)とあるように、お互いに心を一つにして聖体拝領に向います。したがって平和のあいさつは聖体拝領の準備でもあります。平和のあいさつのあと、聖体拝領のもう一つの準備として平和を願う「平和の賛歌」を歌います。
主の平和をいただくわたしたちはキリストに満たされた喜びの状態ですので、形式的にではなく、にこにこした顔であいさつを交わしましょう。
 「希望の神が、信仰のうちに、あらゆる喜びと平和を あなたがたに満たしてくださるように。」
 (ロマ十五:十三)
(教区典礼委員会)